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風土記 −滋賀県の県民性    (編集中)

  
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◆近世国名・藩名:近江(おうみ)
 滋賀県の推計人口は、2011年10月1日現在、1,414,398人である。

  日本列島のほぼ中央に位置することから,東日本と西日本,日本海側と太平洋側を結ぶ接点とし,古代から日本の回廊ともいうべき役割を担ってきた。
  県の中央にある日本最大の湖・琵琶湖は,県の面積(約4,017平方キロメートル)の約6分の1を占める。琵琶湖を囲んで,古代の東海道・中山道・北国道が通り,後代には,北国街道・朝鮮人街道・御代参(ごだいさん)街道などが整備された。これらの街道の発達を通じ,中世以来の商業活動や市場の形成を促してきた。

 そうしたことから、この県は商才に長けた人を多く出している。それが「近江商人」で、江戸時代など、遠く東北地方にまで行商に出ていた。現地に住みついた者も少なくないという。これは、長く都の置かれていた隣の京都と違って、古くからの伝統にとらわれず、妙なプライドにも毒されていない近江商人のフットワークの軽さを余すところなく物語っている。また、勤勉で実直、信仰心が厚くストイックな一面もある。

 滋賀県は京都,大阪のすぐ隣にあり、早くから開けていた。しかも、首都(=大津京)が置かれた時期もあるから、その経験のない河内や和泉よりはよほどあか抜けたところがある。

 海なし県であるが,海と見まがうほど大きな印象を与える琵琶湖があるせいか、滋賀県人は総じて開放的で気さくである。それと、東海道・北陸道・中山道の三つが交わる交通の要衝でもあったから、情報の早さという点では、下手をすると京都や大阪をもしのいでいた。

 そうしたことから、この県は商才に長けた人を多く出している。それが「近江商人」で、江戸時代など、遠く東北地方にまで行商に出ていた。現地に住みついた者も少なくないという。これは、長く都の置かれていた隣の京都と違って、古くからの伝統にとらわれず、妙なプライドにも毒されていない近江商人のフットワークの軽さを余すところなく物語っている。また、勤勉で実直、信仰心が厚くストイックな一面もある。

北は福井県、東は岐阜県、南東は三重県、西は京都府と接している。また、まわりを伊吹、鈴鹿、比良、比叡などの山々に囲まれている。


   県民性

  

 

京都に接するという地域性からか,洗練された都会的な感性を持つ。また,この地は天秤棒に象徴される近江商人の地でもある。商才にたけ計算高いが,本質的に自らを律し,勤勉と禁欲を心がけている。そして,計画性があって,合理的な考えをする人が多い。


●滋賀県は,近江商人発祥の地 

 「売り手よし,買い手よし,世間よし」の「三方よし」
 近江商人の経営理念は,「売り手よし,買い手よし,世間よし」の「三方よし」の心得。江戸時代の昔から商売のあるべき姿を確立していたのである。近江商人たちは,創業時は天秤棒を肩に全国を行商した。一定の販路と資本ができると三都(江戸・大阪・京都)をはじめ全国に出店した。井原西鶴が『日本永代蔵』で「鋸商い」と呼んだように,持ち下り荷(関西から関東や地方へ)・登せ荷(地方から関西や江戸へ)など,地域間の需給と価格差に着目して生産地から消費地へ生活必需品を流通した。「産物廻し」と呼ばれた。

【近江商人「商売の十教訓」】
1 商売は世の為,人の為の奉仕にして,利益はその当然の報酬なり。
2 店の大小よりも場所の良否,場所の良否よりも品の如何。
3 売る前のお世辞より売った後の奉仕,これこそ永遠の客をつくる。
4 資金の少なきを憂うるなかれ。信用の足らざるを憂うべし。
5 無理に売るな,客の好むものも売るな,客の為になるものを売れ。
6 良き品を売ることは善なり,良き品を広告して多く売ることはさらに善なり。
7 紙一枚でも景品はお客を喜ばせるものだ。つけてあげられるもののない時は笑顔を景品にせよ。
8 正札を守れ! 値引きは却って気持ちを悪くするくらいが落ちだ。
9 常に考えよ,今日の損益を。
10 今日の損益を明らかにしないでは寝につかぬ習慣にせよ。
11 商売には好況,不況はない。いずれにしても儲けねばならぬ。

●縁とゆかり

 ・近江−下野

 生産量日本一の栃木のかんぴょう。江戸時代に近江からもたらされた。 1712(正徳2)年,鳥居伊賀守忠英(とりいいがのかみただでる)が近江国(滋賀県)水口から下野国へ転封となった。かんぴょうは,その折にもたらされたと伝えられている。





   地域特性

●地勢


 大阪湾・伊勢湾・若狭湾に挟まれ,本州のくびれに位置する滋賀県は,日本海・太平洋そして瀬戸内海からの風の通り道になっている。そのため,ちょうど滋賀県が天気のかわり目になる。湖南・湖東は瀬戸内型,湖西・湖北は日本海型そして鈴鹿山麓は太平洋型の気候である。



   地域区分




・大津地域:大津市(旧大津市、志賀町)
・南部地域:草津市  守山市  栗東市  野洲市
・甲賀地域:甲賀市 湖南市
・東近江地域:東近江市 近江八幡市 日野町  竜王町
・湖東地域:彦根市  愛荘町 豊郷町 甲良町  多賀町
・湖北地域:米原市 長浜市
・高島地域:高島市
 














●県庁所在地−大津市


 2000年(平成12年1月)現在、人口28万9千人。
 延暦13年(794)桓武天皇が平安京(京都)に遷都すると共に、大津はその外港として 栄え、唐崎や石山寺が信仰をかねた名所としてにぎわった。延暦 7年に最澄が比叡山中に開いた寺院は、のちに延暦寺として朝廷から崇敬され、さらに円 珍の開いた園城寺が分立し、それぞれ山門(延暦寺)・寺門(園城寺)と称されて、宗教 界の大勢力に成長しまた。
 明治維新後、大津は滋賀県の行政の中心として位置づけられ、県庁が置かれた。ま た、陸軍歩兵第九連隊の駐屯地となり、軍都の性格も加えられた。いっぽう、交通・ 運輸・治水等諸分野で近代化が進められ、汽船の就航や鉄道の敷設、また琵琶湖 疏水の開 削や瀬田川洗堰の建設などがつぎつぎと実施された。
 大津の現代は、レーヨン工場に象徴される工業都市化に始まった。しかし、長い戦 争は、その発展を一時止めました。そして敗戦。アメリカ占領軍の民主化政策を経て、大 津は新しい歩みを始めた。
 

   滋賀県の人口


  総務省住民制度課によると、住民基本台帳に基づく日本の人口が2010年から減少している中で、滋賀県は対前年の人口増加数が3,545人と,全国7都県しかない人口増加地域のひとつである。
 なお,対前年の人口増加数が最も多いのは、東京都(3万6,810人)で、次いで愛知県(1万3,547人)、以下、神奈川県(1万778人)、沖縄県(9,355人)、埼玉県(8,574人),福岡県(5,963人),滋賀県(3,545人)の順となっている。

 報道資料   総務省 ⇒ 報道資料 住民基本台帳に基づく人口人口動態及び世帯数(平成 24 年年3月31日現在)


 滋賀県の人口が増えている要因の一つに,京都まで約30分、大阪まで約50分と,大都市へのアクセスの良さにある。とりわけに名神高速道路や東海道新幹線が通る草津市は、滋賀の中でも交通網が充実しており、人口の増加率上昇が顕著である。
  ベッドタウン化以外に,広い土地が確保できることがあげられる。これは,立命館大学などの7つの大学が滋賀県内に設立・移転をしたことや、京都や大阪などの大企業が滋賀県に進出し、雇用が創出されたことに見られる。エレベーターメーカーのフジテック本社、半導体製造装置メーカーの大日本スクリーン製造の事業所などが新たに滋賀県内に設立され、雇用口が広 まった。

滋賀の大学

 ・滋賀大学: (彦根市馬場)
 ・滋賀医科大学::(大津市瀬田月輪町)
 ・滋賀県立大学:(彦根市八坂町キャンパスは琵琶湖。テキストは人間。)
 



   


●信楽焼

  信楽焼(しがらきやき)は、滋賀県甲賀市信楽町を中心に作られる伝統陶磁器、b器で、日本六古窯のひとつに数えられる。長い歴史と文化に支えられ、伝統的な技術によって今日に伝えられた。て、日本六古窯のひとつに数えられている。
 信楽の土は、耐火性に富み、可塑性とともに腰が強いといわれる。「大物づくり」に適し、かつ「小物づくり」においても細工しやすい粘性であり、多種多様のバラエティーに富んだ信楽焼が開発されている。

 ⇒⇒ 信楽焼 干支



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●北前船


  江戸から明治時代にかけて日本海海運の主力を担った北前船。北前船は,瀬戸内から松前の間の日本海側を航行する,積み荷を各地で売買する商船(買積み船)のことを指す。


 日本海を行く北前船などの回船や川舟が集まって来る,みなとまち新潟。数々の商家が盛衰を繰り返した。




   


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★まち楽 滋賀★








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