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風土記 −富山県の県民性    (編集中)

  
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◆近世国名・藩名:越中(えっちゅう),越州(えっしゅう)

 富山県は1833(明治16年)年に石川県から分県し誕生した。本県は日本海に面し本州の中央北部に位置し,東南西を山に囲まれ,北は海に面する半盆地形の地形の中に,富山平野が広がっている。東は新潟県と長野県,南は岐阜県,西は石川県に隣接している。東に立山連峰が連なる3,000m級の北アルプス,南に飛騨山系,西に医王山から加越国境の丘陵,さらに能登半島基部の山地が連なる。

 “トヤマ”の由来は,「山の外にある地」という意味の「外山(とやま)」と呼んだことによる等の説がある。また「富山」は当て字である。富山と言えば,東に北アルプス,南に飛騨山系,西に加越国境の丘陵と,三方を峰々に囲まれた,自然豊かな土地としても知られる。

 

 
 
 

   県民性


 富山県の県民性は、骨身を惜しまず黙々とよく働き,勤倹貯蓄を心がける実直さ,そして合理指向で,実行力がある、進取の気性に富み,家族を大切にし助合い、信仰心も厚い、思想面では保守的だと言われている。
 こうした気質は,一つには氾濫を繰り返す急流河川との闘いの歴史,冬季積雪下での忍耐の歴史に育まれたのであろう。
  NHK県民調査にみる富山県の県民性
   城端町(越中の小京都)
 08年4月,全国一斉に行われた全国学力・学習状況調査(学力テスト)で,富山県は前回に続き,小6,中3とも全教科で平均正答率が全国の平均を上回った。全教科区分で5位以内と好成績を収めた。
 好成績の背景として,県教委や教育関係者らは,実体験を通した学習などの取り組みと,教育熱心で勤勉な県民性などを挙げている。
  こうした,教育的な背景に加えて,「生活が安定しており,学校での学習に向き合える環境が整っているのではないか」とし,その背景として県民性があげられる。


 

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●富山と石川の比較


 隣接する石川県とは人口規模が同一レベルであり,かっては富山県の方が上回っていたが,近年,人口の差は開くばかりである。富山県は,昭和初期から昭和50年頃までの約50年間だけ石川県の人口を上回た。
 富山県の人口千人当たり出生率は,全国で下から2番目(最下位は東京都)であるだが,1人の女性が生涯に産む子供の数を示す富山県の合計特殊出生率は,全国平均よりも高い。
 富山,石川両県の人口増加の大部分は,県庁所在地富山,金沢両市とその周辺地域で起きている。したがって,その都市的魅力の差が,両県の人口格差の要因とも考えられる。明治維新前後に,金沢は,13万人を超える大都市であり,これは名古屋よりも大きかったのである。これに対して,当時,富山は金沢の4分の1の人口にすぎず,以来,金沢と富山の都市的格差は縮まっていない。新潟県の1人当たり県民所得は平成9年度で3,003千円で,全国平均に比べて187千円低く,全国20位である。就業率は63.3パーセントで,全国平均より2.5ポイント高く,全国9位,女性の就業率も51.3パーセントで同じ4.0ポイント高く,全国9位と高いレベルにある。





    富山の薬

 
  富山といえば,全国に知られている富山の配置家庭薬販売業がある。
●ルーツは江戸時代にさかのぼる
 配置薬の起源は,いまから300年前の江戸時代にさかのぼる。元禄3(1690)年,富山藩二代目藩主・前田正甫(まえだまさとし)公が江戸城内で突然の腹痛で苦しむ岩代三春(福島県)の藩主・秋田河内守(あきたかわちのかみ)に,自らの印籠から『反魂丹(はんごんたん)』を取り出して勧めたところ,たちどころに治ったという。それを見聞きした諸国の大名から,ぜひ自分の領内でも販売してほしいと依頼されたのが,配置薬の始まりといわれている。

 お得意先への各種薬と子供へ配るお土産を収納した重い柳行李を背負い, 道中の苦難をものともせずに各家を廻って歩いた富山の売薬さんの記憶は,こうした庶民の薬に対する必要性へ合致させた視点を反映させた「置き 薬」方針が決定付けられた要因として,「富山の薬売り」である彼ら共通 の本拠地である越中の国が歩んできた,歴史の独自性が結実・醸成させて きたものと言い換えられるようです。     
 そこで取り扱う薬品種は多岐にわたりますが,特に体調不良時の栄養補給剤・予防薬のほか,現金収入の道が限られていた当時,生活を営む上で頻繁に起こった腹痛や火傷のみならず,広域災害緊急時などの医者を即呼べる経済状態でなくても,備え置かれた多品種配置薬によって素人でも応急処置を行えて,自己治癒力を増進し診療と同等の回復可能に導く,いわば広義には現在のセルフメディケーションの原型理念が確立しており,それは実際的な効果と利点があるとして受け入れられる素地になりました。
●富山にクスリ産業が育った歴史の背景
 先土器時代に始まる富山の地は古墳時代に至って,後に興る薬学発展の基礎となる転換期を迎えます。この時代の富山は,対馬海流によって朝鮮半島や出雲出身の先進文化人達を乗せた船が北陸地方に着き,土着したり一定期間の滞在中に地元民との交易を通じた知識交流も行ったようだ。  
◆奈良・平安時代
 奈良・平安時代になる頃には,遣唐使の往来によって仏教知識と共に他地域にも唐の先進薬学知識と実物が伝わったらしく,多くの僧侶が指南役となって,数種類の原料を調合して作る「合薬(あわせぐすり)」も伝えられたといいます。この仏教と薬の組み合わせは江戸時代末期まで漢方薬として定着し,日本国内で使用される薬の主流を占めてゆきます。
 この当時,日本は中国東北部にあった渤海国と交易を行う間柄であり, 使者を乗せた船は筑紫(北九州)に着く取り決めであったものの,机上の取り決め通りに行かず,風と潮流に影響されて五割近く北陸地方に漂着してしまい,越中が第二寄港地として代替機能を果たすことになりました。
 この交易によって動物殺生を禁ずる僧侶が草根木皮ばかりを使う薬に対し,戒律に縛られない商人達は麝香・牛黄・熊胆などの角,内蔵を含めた動物生薬を伝え,他地域では敬遠されがちだった新たな薬種が越中(富山)に定着しました。

 こうして取り扱い薬種層を深めた越中には元々,原料となる薬草等の収穫量も豊富であったが故に,都へ納めねばならない調税にはこれら薬種が指定されてしまうのですが,搾取をされてしまった反面,都からも薬学 関連の専門家が移住してくる利点もあり,そうした研究成果は結果的に富山の薬商人を生み出すのに貢献しました。
◆鎌倉時代
 鎌倉時代に入りますと仏教が庶民・武士階級にも受容されたこともあり, 幕府も保護の度合いを強め,それによって日本人も仏教僧として留学すべく中国に渡ってゆきます。彼らは彼の地で仏教のみならず医学・薬学の知 識も学んで帰国してきた後は,それらを患者の症状改善に生かす研究に励 んだため「僧医」と呼ばれます。更に宋との貿易では,一般商人が参入することに伴って民間医も現れ始め,薬を湯水の如く消費していた上流特権 階級からは末端扱いされていた庶民にも,徐々にではありますが薬の恩恵 が及んでくる契機になりました。

◆室町時代
 室町時代になりますと,いよいよ富山の薬売りの萌芽とも云うべき売薬方式が一部の人達によって原型が現れ始めるのですが,おそらく関わった当人達も意図していない偶然発生した方式であったようです。事の始めは立山の麓に建てられた芦くら寺・岩くら寺の部落の人たちが山岳信仰の一環で,立山信仰と立山参拝を勧めるべく布教活動を目的とした全国的な布教活動の旅費稼ぎに販売していた祭祀用具が取り持った縁でした。
 その用具とは,黄泉路に赴く死者に着せる経衣・霊的悪条件に対して魔除け効果がある護符等を,指定された宿に預け,その一年後に使用された分だけの代金を集金するという方式でした。ですが次第に周囲の彼らと親交のある人達だけが貰える,彼ら修験道者が常備携行する「よもぎねり」「三効草」「熊肝」等に代表される信仰とは直接関係のない,純粋な薬を欲するようになったといいます。山岳信仰者が健脚であるのは様々な人跡未踏の霊山・険山等を踏破し続けた,いわば厳しい心体両面修行の末に体得したとも云えるのでしょうが,何よりその原動力を支えたものに該当したのがそれらの薬であったことに着目したのではないでしょうか。かくしてこれらの薬も宿に預けられていた薬達の新顔になり,こうした立山衆徒の配札檀那廻りで行われた委託性薬種販売が,後の富山売薬の起源になったのだといわれています。
 室町時代の富山城下では既に,唐からの輸入薬種を販売する「唐人(薬種商)」のかまえる店が何軒もあり,彼らは「唐人の座」と呼称される同業者組合も組織していたようで,その参入者の中には激化の一途を辿る戦に敗れた武士が世の無常を感じたのか,廃業した後は人を生かす道を模索する薬業に鞍替えしたという例も少なからずあったようです。
◆戦国時代
 戦国時代に突入すると,文字通り大名達にとって薬は国存続の為に不可欠な要素となり,その活用範囲,価値認識は増大し,また深耕した時期となりますが反面,その幅は狭く家伝薬・秘伝薬といった一国内の秘匿扱いとなり,その効能は他国民であっても救い合う共有財産とは成り得ない,自国内での範囲で収束した発展に留まりました。
 そこで取り扱う薬品種は多岐にわたりますが,特に体調不良時の栄養補給剤・予防薬のほか,現金収入の道が限られていた当時,生活を営む上で頻繁に起こった腹痛や火傷のみならず,広域災害緊急時などの医者を即呼べる経済状態でなくても,備え置かれた多品種配置薬によって素人でも応急処置を行えて,自己治癒力を増進し診療と同等の回復可能に導く,いわば広義には現在のセルフメディケーションの原型理念が確立しており,それは実際的な効果と利点があるとして受け入れられる素地になりました。

◆江戸時代
 太平の世を迎えた江戸時代になりますと,各国に設置された諸藩が地方 行政府として多面機能した為,治安面も格段に向上してゆきます。それに 乗じて商人の経済活動も活発化してゆくものの,依然として薬の製法は秘密 の度合いが高く,民衆も気軽に購入できる値段ではない上に商標も多く,それぞれ肝心の薬効にも真偽面でバラツキがありました。そのような玉石 混合の様相を呈するなか,薬効品質の標準化と多方面にわたる販売経路開 拓に着手し産業規模に発展させるべく偉人が名乗りを上げました。それは現在もなお日本中に認知され続ける,富山の配置家庭薬販売業の確たる基 盤を築きあげた,富山藩二代目藩主・前田正甫公でした。正甫公は薬には 多大な興味があり,個人的に行った薬学研究成果を病気の家来に投与して, 臨床結果を重視し今後に生かす学者肌な一面を持っていたようです。
 そんな折り,自身が腹痛に悩んでいたところ,家来が備前に住む万代常閑なる 医者が調合した薬を献上されます。服用してみると効き目は例がないほど 素晴らしく,本人を当地に招聘し製法を伝授して貰い,その後は自身も印 籠に入れて携帯するほど絶対の信頼を寄せていました。そして立山衆徒も 瀕死の者を起死回生させるほどの霊験を早くから認めていたことも勘案し 「反魂丹」と名付け,民衆にも効用を行き渡らせるべく富山在住の薬種商・ 松井屋源右衛門に製造を命じます。
 更に出向先の江戸城内で将軍に謁見中,同席していた多領主が同様の腹痛で苦しむ場面が生じ,そこでも反魂丹が 救ってみせたことによる,思いがけない実演効果を眼前で見せられた藩主 達から「ぜひ我領内でも販売してほしい」,との要請を頂戴する好機が到来しました。当時は他領での商売が禁制されていたにもかかわらず,将軍家と居合わせた各藩主の格別の配慮のもと全国販売の端緒がひらかれたのです。そこから先は正甫公のみならず,続く歴代の富山藩主達は「富山を薬の生産中心地に」という構想実現の為,迅速かつ正確を期する組織体制作りを,細分化された薬業の現場に携わる人達と両輪となってすすめてゆきます。

 元禄時代に始まった売薬さんによる全国展開も六十年を過ぎると高認知度を得られる反面,売薬さんの従事者数も千を超えます。そして粗製濫造されたものが仕入れられることによる儲け主義と品質低下の危険性を排除し,信用失墜させない為に薬そのものの高品質維持の観点から製法の統一化をすべく反魂丹役所を設け,厳格な商品審査基準を構築しました。
 また,売薬さんたちは「仲間組み」「向寄」という,旅先の地方毎,藩毎に交渉役割を決めた相互扶助組織を築き,対象となる相手藩領内役所で協議を重ね,円滑な商業活動ができるよう尽力しました。特に仲間組では,活動地における富山売薬の信頼を損ねるような本来目的から逸脱した各種の不正行為を生じさせないように,身内内での厳格な罰則規定である「示談」を定めることにより,仲間同士で違法行為の抑止,看過しないことを旨とし,徹底しました。

こうして地場産業として後世まで定着させる組織作りを重ねて過程では特に,顔となる売薬さんの貢献度は非常に高く,必然的にその売薬さんの仕事に就くには,お得意先に関する個別情報を記載した「懸場帳」を正確に処理する,高度の商業的素養が必要となります。全国の担当区域へ敢然と散開してゆく売薬さんの勇姿は,大人のみならず寺子屋で学ぶ子供達にも波及効果があったようで,将来的に売薬さん及び関連職業に就かせるべく,周囲の大人も,当時としては先進的だった幼少時教育を重視する土地柄になりました。
 
 江戸後期にいたる頃には,「北前船」の利用により北は北海道,南は四国,九州,沖縄にまで販路を拡大し,中でも中部地方が顧客の多さから最大の活動領域になり,関東,東北,九州はこれに次ぎました。

◆明治・大正時代
 明治,大正時代に入ると,もはや富山の薬売りの名は鳴り響かない地域は無いほどの認知度を獲得しますが,その背景には薬を単に商業として捉える以前に,各お客様との親身なお付き合いと,地域間の経済格差に左右されず,恐慌した社会情勢時には無報酬での薬提供も辞さぬ,人命尊重に殉じる献身的行為の事実が多々ありました。
 あらためて「富山の薬売り」という方式は,富山の人々が薬生産中心地に至っても最終達成と捉えて安穏とせずに,確立した地場産業であればこそ実行せねばならぬ次の目的,それは信用ある人脈と薬剤安定供給を基盤とした,規模拡大後の社会全体利益に資する活動をも追求し続けたことにあります。
 「行商」という視座の広さと緻密な連携の双方を要求される営業形態であるからこそ,その従事者各自が真心と共通理念を併せ持つことによってのみ完成される理想形態とその相乗効果を,後世へ体現してみせてくれたのだといえるのではないでしょうか。
 



   地域区分



         


県庁所在地:富山市

人口 421,890人(平成22年国勢調査〈速報値〉)    世帯数 159,066世帯(平成22年国勢調査〈速報値〉)

 富山市は富山県のほぼ中央から南東部分までを占め、北には豊富な魚介類を育む富山湾、東には雄大な立山連峰、西には丘陵・山村地帯が連なり、南は豊かな田園風景や森林が広がっている。
 市内には神通川や常願寺川など大小の河川が流れ、古くから川で結ばれた文化圏を形成している。海の幸に恵まれた富山湾から登山家たちを魅了してやまない3,000メートル級の山々までが織りなす自然の姿は、すばらしい景観をなしている。

 富山市の平野部は,豊かな農耕地帯として,また北陸道などの交通の要衝として古くから栄え,たびたび戦乱の地となった。安土桃山時代には佐々成政が富山城に入城し,治水事業を手がけ,農業がますます盛んになった。江戸時代になると富山藩十万石が置かれ,薬業や和紙などの産業が奨励され,飛騨街道や北前船航路などの交通・物流網の整備や越中売薬の独特の商法も相まって「くすりのとやま」として全国に知られるようになった。

 明治以降,県庁所在地として,また北陸初の水力発電所が建設されるなど,豊かな電力を基盤とした工業のまちとして順調な発展を遂げましたが,昭和20年8月の空襲により市街地は壊滅的な被害を受けた。戦後,都市基盤の整備や産業経済の進展により,現在では日本海側有数の商工業都市として発展してきた。
 また,平成8年には旧富山市が中核市に移行し,平成17年4月には,富山市,大沢野町,大山町,八尾町,婦中町,山田村,細入村の7市町村が合併し,新しい「富山市」が誕生した。
 平成18年4月には,全国初の本格的LRT富山ライトレール開業,平成19年2月には,富山市中心市街地活性化基本計画が国から第1号の認定を受け,平成20年7月には,国の「環境モデル都市」(全国で6都市の1つ<現在13都市>)に選定された。


  




富山の大学

 ・富山大学: (富山市五福)
 ・富山県立大学:(射水市黒河)
 

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   地域特性

●地勢・気候


 

●県


 



                               

 


   真宗王国

 

 越中は、越前・加賀とともに浄土真宗が盛んで、真宗王国といわれる。本願寺8世蓮如が伏木の勝興寺の前身である土山御坊を創立するに及んで、真宗は砺波郡から越中全域へ急速に教線を拡大した。信仰は深く根をはり,今日も富山県は真宗王国と呼ばれるほど,浄土真宗の家が多い。  
     

         






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