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風土記 −栃木 の県民性    (編集中)

  
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 歴史とロマンに満ちる地

◆近世国名・藩名:下野(しもつけ)

 栃木県は関東地方の東北部に位置する海なしの内陸県である。1868(明治元年)年の廃藩置県で,真岡代官領地8万石を受け継ぎ「真岡県」としてスタートした。東は茨城県,西は群馬県,南は茨城,埼玉,群馬の3県,北は福島県に接する。面積は6,408ku(平成14年4月現在)で全国第20位。09年10月現在の人口2,009,70人,世帯数742,304世帯。
  
 平安時代、下毛野(しもつけぬ)国と那須国があった。7世紀後半、統一されて下野国となり、現在の栃木県の原型が作られました。徳川家康が江戸に幕府を開くようになると、天領や旗本領に細分化された大名や旗本が支配しました。

  南の平野部を除けば大部分が山地で,内陸特有の寒暑の差が著しいという寒暖の激しい気候は,中国北部と似ている。北部から西部にかけての山岳地帯は日光国立公園に指定されており,日光,鬼怒川,川治,栗山,塩原,那須などの,温泉,高原,名所・旧跡,ゴルフ場など観光資源を豊富に持つ有数の観光県でもある。 


 

   県民性


足利尊氏の出身地−反骨の気概が受け継がれる

 

 下野国は中仙道が走り,上野国から新潟,長野を経て都と連なっていた。栃木県の歴史で特筆されるのは,足利尊氏が出たことである。抵抗の英雄として,いまも栃木県人に反骨の気概が受け継がれている。
 江戸時代,字都宮藩が6万石,あとは十の小藩に分かれ,さらに天領と日光山領が入り組むという統治体制であった。小藩制であったゆえにゆえにまとまりがなく,郷土意識は低いともいわれる。
 なお,気性の荒い北関東地域にあって,茨城や群馬のような際だった個性はみられず,穏やかな印象を持たれている。こうした中で,県民性として,強気と弱気,打算性と非合理性,反抗性と消極性,向こう見ずとだらしなさ,といった二律背反の性格の混在しているとも,いわれている。
 この事例としてソニー創業者の井深大氏,足尾鉱毒事件に立ち向かった田中正造氏があげられる。
 田中正造の生涯は,抵抗反発と正義愛好によって貫かれている。終始,理想主義に情熱を傾け,正義に殉じ,何回もの入牢や拷間に耐えながら足尾鉱毒という公害告発に一生を捧げ,酬いを求めず,不遇の中て死んでいった。田中正造の生涯は,この県の人に流れている抵抗と強気の典型であり,強い正義愛好の理想像ともいえよう。

 −−豆腐の地域性は強い。足利など北関東ではソフト木綿,埼京線沿線は木綿が主流。−−

 『おとなしく目立たず』が信条との,世評も聞かれる。  

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   地域区分


 県中央部は広大な平野が広がり、北部から西部にかけての那須連山、帝釈山地、足尾山地の山岳地帯と、中央部の那珂川、鬼怒川、渡良瀬川の沿岸平野部の3地域に大別される。

●県庁所在地−宇都宮市

 県都宇都宮市は,東京から90km,JR東北新幹線で約50分の位置にある。江戸時代には城下町として栄えた。また,奥州と江戸を結ぶ交通の要衝として,参勤交代や日光東照宮の造営などにより往来も多く,「小江戸」と呼ばれるほど繁栄した。
 1884年に栃木県庁が置かれ,1889年に町制,1897年に市制が施行された。09年2月現在,人口総数 510,223人,世帯数 209,048世帯。72年に東北自動車道が,83年には東北新幹線が開通するなど交通網は充実し,96年には中核市となりました。00年には北関東自動車道の一部が開通し,南北・東西の動脈の結節点として、人やモノの交流が活発化しています。
 


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宮崎アニメの“聖地”に!幼少期に疎開し暮らした宇都宮市の家



 長編映画製作からの引退を発表した宮崎駿監督(72)が、太平洋戦争中の幼少期に疎開し暮らした栃木県宇都宮市の日本家屋( 栃木県 宇都宮市 松が峰 2-7-17)が、ほぼ当時のまま画廊に改装され、注目を集めている。玄関近くの傾斜が急な階段は、「となりのトトロ」に登場する。2階の窓からは、電車が目線と同じ高さで横切る風景が見える。ラスト作「風立ちぬ」でも、主人公堀越二郎の生家のモデルとなった。

 宮崎監督は1941年に東京都で生まれ、宇都宮市に疎開。3歳から小学3年までこの家に住んだ。築80年で、洋間や14畳の和室がある木造2階建て。昨年2月に、画廊「絆和(はんな)」に改装され、作品展示中は誰でも客として入ることができる。

・アクセス: JR宇都宮駅→きぶなで17分、宇都宮市役所下車、徒歩3分

 〜注意 〜   
 路地奥の民家ギャラリーのため、Uターン場所、駐車場はありません。ギャラリー前への車の乗り入れは近隣への迷惑となるため、遠慮ください。近隣有料駐車場を利用ください。


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┗■  栃木県庁,宇都宮へ移転の経緯

 栃木県では,かつては栃木市(当時は栃木町)に県庁が置かれていた。廃藩置県後の1873(明治6)年6月,宇都宮県と栃木県が合併して現在の栃木県が誕生したとき,栃木町が県庁所在地になった。宇都宮の住民はこれに反発したが,いったん決まった以上どうすることもできなかった。

 だが,1883(明治16)年頃になると,宇都宮の士族や豪商,地主などが中心になって猛然と県庁移転運動を起こした。県庁が県の南に偏り過ぎているため,県民の多くが不利益を被っているというのが県庁移転連動の理由であった。だが,栃木と宇都宮の距離はわずか30キロメートル足らずしか離れていない事もあって,この誓願は却下された。

 ところが,1883年10月に福島県令(県知事)の三島通庸(みちつね)が,栃木県令に赴任して様相が一変した。県庁移転運動に対抗して提出された県庁移転不可の建議書や,県庁据置請願書などをことごとく却下し,3カ月後の1884 (明治17)年1月に,県庁を宇都宮へ移転したのである。だが,県民の利益を守るために県庁を移転したわけではなかった。栃木が県の南部に偏りすぎているというのはあくまでも建前で,民主勢力を弱体化させることが本当の狙いだったといわれている。

 栃木は栃木県における自由民権運動の拠点として,反政府運動が最も盛んな地域だった。足尾銅山鉱毒事件で知られる田中正造も,そのひとりである。県庁のお膝元から民主勢力を排除し,三島県令の意のままに県政を運営することが,県庁を宇都宮へ移転した最大の理由だった。


    渡良瀬遊水地ラムサール条約登録 周辺自治体に温度差


 栃木、茨城、群馬、埼玉の4県にまたがる渡良瀬遊水地が,2012年6月ラムサール条約に新たに登録された。遊水地にかかる市町には「遊水地の魅力を生かして地域活性化や観光振興に取り組みたい」などと歓迎ムードが広がった。

 「今日が終わりではなく出発点。遊水地を自然環境のメッカにしていく」。遊水地にかかる小山市の大久保寿夫市長は、環境省から正式登録の電話報告を受けると、記者会見で強調した。今後は国と協議しながら、エコミュージアムや防災ステーションの建設▽コウノトリやトキが立ち寄れる環境づくり▽トイレや飲食施設など周辺整備−などに取り組むという。

 一方、遊水地の7割を占める栃木市は,反対意見が根強かったこともあって,手放しで喜べない複雑な状況にある。渡良瀬遊水地はもともとダム機能を果たすために人工的に作られたもので、市内には「治水機能が阻害される」との懸念が根強い。

ラムサール条約とは
 1971年にイランのラムサールで開催された「湿地及び水鳥の保全のための国際会議」において「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」が採択された。この条約は開催地にちなみ、一般に「ラムサール条約」と呼ばれている。




    益子焼


 車窓からの景色を眺めながら、ゆったりとしたひとときを過ごせる列車の旅。そんな列車の中での楽しみのひとつに車内で食べる駅弁がある。駅弁の人気商品の一つに1958年に誕の荻野屋の駅弁「峠の釜めし」がある。その容器である土釜に使われているのが栃木県益子町で作られている益子焼である。




  「益子焼は、江戸時代に茨城県の笠間で陶工を学んだ大塚啓三郎氏が窯を築いたことに始まるといわれている。はじめは、水がめや土鍋などの台所用品が中心に作られていた。その後、使われてこそ美しいという考えのもと、民芸運動に力を尽くした濱田庄司氏の影響で花瓶や食器などの民芸品が作られるようになり、広まった。
  伝統を残しながら、時代や使い手のニーズに合わせて変化してきた益子焼。益子町では、益子焼でできた案内板や壁をいたるところで見ることができる。また、進取の気性に富んだ土地柄から、若手からベテランまでさまざまな作家が活躍し、作品も多種多様で訪れる人を飽きさせない。
           


    栃木の城


・藤原秀郷ゆかりの佐野・唐沢城跡
 栃木県佐野市の「唐沢山城跡」を訪ねると、中世の色彩を今も色濃くとどめていた。年代は定かではないが、平安期のころに唐沢山(標高242メートル)の山頂に築かれた山城で、佐野氏が築き上げ関ケ原の戦のころまで居城とした。江戸末期に出版された地歴書「下野国誌」に関東7名城の一つとして紹介されている。

 戦国期には上杉謙信の度重なる攻撃にも耐え、難攻不落を誇ったが、現在は城跡の真下を北関東自動車道のトンネルが抜け、車で山頂付近まで登ることができる。







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