郷土意識が強く,武士の精神と商人の知恵が根づく
◆近世国名・藩名:常陸(ひたち)
県の名称は,「いばらぎ」ではなく「いばらき」。関東地方の北東に位置し,水戸,日立,つくばなど71市町村(09年3月現在)人口2,967,367人。世帯数は1,078,655世帯で,全国11番目に人口の多い県である。県南の取手市は,東京の中心から40㎞,県都の水戸市は,100㎞圏内と,東京と近距離にある。
奈良時代(8世紀前半)に朝廷の命令で編纂された常陸国風土記には土地広く,土が肥え,海山の産物もよく採れて,人々は豊かに暮らし,常世の国のようだ」とあるように,豊穣なる地味を持つ国であった。江戸時代には水戸に徳川家の藩が置かれ,江戸に近いこともあって,水陸交通の要所として栄えた。
茨城県は水戸,日立,つくば市など44市町村(2006年3月27日現在)からなる。2010年国勢調査結果速報によると,人口2,968,865人。世帯数1,088,848世帯と全国で11番目に人口の多い県である。2005年実施の前回調査と比べ,人口は6302人(0,2%減),世帯数は5,5%増加し,1世帯当たりの人数は0,15人減った。
県南の取手市は,東京・日本橋から40㎞,県都の水戸市は100㎞圏内と,東京に近接する。
県民性
●水戸,仙台,名古屋は日本の3大不美人の産地?-
水戸,仙台,名古屋は3大不美人の地だという。誰が,いつ頃から言い出したのか,それが真実なのかどうかは定かではないが,まことしやかに語られてきた。
徳川家になる以前,水戸の地を治めていたのは佐竹義重だった。義重の治世時には,常陸国内にあって強い姻戚関係で結ばれていた多数の土豪たちを強引に葬
り去り,江戸氏の所領を除いた常陸全域を手中に収めた。時には隣接する那須家などの大名と組み軍事外交を多数展開し,結城白河家などにも自身の息子を送り
込んで当主に据えてしまうなど,外交と軍事両面で辣腕をふるい最大の版図を築いた。しかし,小田原に本拠を置く後北条氏は,既に従属させた関東平野の主
だった名族豪族らとともに,東北地方への進攻を狙うまでになっていた。
佐竹氏にとっては喉元までに迫るこれら勢力を食い止めるべく力を傾注したいところだったが,伊達氏も後北条氏と示し合わせたかのように南下する気配を見
せており,挟撃される立ち位置に陥ることになる。そこで,これ以上,所領を増やす為の侵略戦に区切りをつけ,今度は手持ちの所領を安泰にするべく,かねて
から身内を使者として送り誼を通じていた天下人秀吉に対し,関東諸将のなかで逸早く臣従を申し入れる。結果,常陸守護として正式任命を受け,いわば日本の
天下が秀吉の手中になった際の約束手形として所領安堵の名分を手にすることに成功した。
これにより関東方面が既に北条一色になりつつある状況を知った秀吉は,北条氏直・氏政親子も臣従させるべく,上方での行事に便乗させた口実を書いた文書
を送り上洛を促すものの,武闘派の前当主・氏政ら抗戦派に押し切られる形でこれを拒否。同じ頃,武田滅亡後に徳川・北条・上杉の三者間で上手に従属離反の
手法で立ち回ってきた沼田城の真田昌幸も同じく秀吉に臣従。その真田家属城・名胡桃城が北条方の将・猪俣氏の計略によって奪取される事件が起こり,これが
中央に通報される。
その件について秀吉は単なる一城の返還問題とせずに,豊臣家に弓引く行為と拡大解釈する口実を得たとばかり,小田原征伐と称し,家康はじめ西軍諸将ら水
軍も含めた二十万の大軍を催し襲来。進軍の途中,箱根の温泉に浸かり物見遊山の風情とは逆に,北条家初代を祀った早雲寺に宿泊した後,焼き払うなど,後北
条家の各支城で迎撃するべく配置されていた一族の精神のよりどころまで挫くかのような戦法を用いつつ押し寄せる。ついには小田原城の背後となる石垣山に陣
城を築き,外郭における局地戦いを経て完全包囲を敷いた。北条側もこれを受け,小田原城内での紛糾を極めた評定によって導き出された決議は降伏に決した。
これにより,戦前から外交僧・板部岡江雪斎を介して上洛の具体的な日時を伝えていた当主・氏直については,隣国として懇意にしていた家康などの助命の口
添えもあり罪を減じられ高野山へ出家を言い渡され,当主の意向を無視して開戦へと扇動した氏政・氏照は斬罪に処される一方,北条家与力として小田原への参
集要請に応えて武将と兵力を送っていた北条傘下の名族諸大名も所領没収など,連座させられる痛恨の憂き目に遭う。ただ,小田原城内に送られていた傘下大名
の人質などは解放されるなどの側面もあった。
この小田原戦のさなか,奥州の伊達政宗も後北条がどれだけ粘れるか期待していたようだが,家康から寄越された降服を勧める書状の中で,さしもの広大なる
堅城小田原城をもってしても,持久戦に持ち込まれては,時間こそ懸かっても結果として落ちることだろう。さすれば必然的に鉾は貴公へと向けられる番になる
のだから,そうなる前に申し開くべき,と説得され,自身もそうした事態が遠からぬと予見。奇しくも,伊達家中においても後北条家中と同様に抗戦派と臣従派
に二分されていたものの,先手を打つことによる証拠作りの重要さをつぶさに実感してきた政宗は,弱腰と見切りをつけて出奔する家臣をよそに,自ら降服を直
接申し出るべく,秀吉が小田原の陣に在ることをせめてもの不幸中の幸いとばかりに,出頭を決意。それでも,その行為を神妙な態度と酌量されなかった場合に
備え,死罪を言い渡された時に自身が磔に使ってもらう,金箔を張った十字架に白装束という出で立ちで出発。
政宗が着到しても,後北条の旗色が悪いことを見て取ったからこその決断として,秀吉はその表裏を疑い,すぐには会おうとはしなかったものの,出頭決意の
裏には,事前に家康が彼に宛てた督促状が大きな原動力になっていることを説明すると,謁見に応じた。死を覚悟しての遠き道のりは念仏を想念しながらまかり
越しました,との神妙な態度と言上で平伏する政宗に対し,秀吉もその若くして得ている豪胆さを褒めて名刀を与え,引き続き太守として任を全うするように通
達をした。
ただし,以後の奥州における防戦以外の私戦禁止と,佐竹氏と同様に早くから臣従を申し入れてきていた会津・黒川城に本拠があった蘆名氏から奪った所領は
没収という,侵略戦をしでかした咎の清算に,大なる対価を払って事なきを得た結果だった。この時,佐竹義重も常陸国内で大きな動きを見せていた。それは,
常陸南西部を治めてきた江戸重通の居城・馬場城(のちの水戸城)を急襲し,彼を結城晴朝の元へと敗走させたことであった。江戸氏は重通の代になってからと
いうもの,攻め戦の回数が増えて民への負担が増し,それを諫めようとした家老による内紛があり,そうした鎮定について後北条氏の介入に頼った経緯があっ
た。重通の祖父(忠通)父(通政)の時代までは形式上,佐竹氏に従属する形だったものの,彼の方針転換によって今度は後北条氏と関係が深くなり,佐竹氏の
目には江戸氏は後北条方として映った。義重は小田原戦の際,後北条方に属する大名への攻撃は,秀吉の通達してきたところの私戦禁止令に背くものにあたら
ず,との根拠を掲げて攻めたものと思われる。
これによって常陸国内は,義重の代で完全に佐竹家の統治下に置かれることになった。こうして死中に活を求めた佐竹義重の機転が功を奏し,一時は後北条氏
と伊達氏の両巨頭を相手に滅亡するかもしれなかった最悪の事態を回避するべく下した英断によって,豊家全盛の時代には家を一挙に好転させることになるが,
後継の義宣の時に関ケ原の戦が勃発。今度は豊臣政権下で,上方に出向していた時における貢献度・重職にあった縁が作用し,西軍に味方することになる。この
決断の際,隠居していた父・義重の戦国特有の時勢を見定める慧眼は衰えておらず,今度の時局の分かれ道に関しても,東軍有利について知見を述べた。
それは,東軍総帥である内府家康は野戦采配にかけては信玄以外にはほぼ負け無しの名手であることからも,基本的に吏僚仕事にしか精通しない三成には,こ
れに抗する術はないだろうということ。そして内府の戦勝後についても,後継ぎの成人男子女子に恵まれた子福者であり,なおかつ,現在の秀頼を後見している
故・秀吉とは縁の深かった子飼い諸将や,覇業に途中から貢献した大名達との間においても縁組で固めてしまっており(家康のこうした無断婚姻が関ヶ原戦に至
らせた遠因),この布石がいずれ実を結び,この先幾世代にもわたる統治者として日本に盤石な政権を築くことだろうと,息子には東軍に味方する方向で家中を
まとめあげろと忠告した。
何より,源氏の支族たる名族・佐竹氏にとっては,出自の定かでない秀吉に臣従したのも,所詮は差し迫った苦境を脱するための一時しのぎに過ぎない,との
本音があったのは,上洛した義重が秀吉と謁見した際も対等の物言いが認められていたことからも明白で,当主であった当人同士の時局における利害が一致した
だけの,いわば仮の臣従関係であったともいえる。ゆえに義重自身としては,秀吉が逝去してしまえば果たすべき恩義は切れたとして,最大主権者を豊臣から徳
川へと鞍替えすることに何の躊躇もなかった。
だが,後を継いだ義宣は,自身が大坂に出向していた折に出来た三成との個人的な交誼を無下に捨てがたく,熱い友情と冷徹な功利の狭間で下した苦しい決断
として,家康の徳川側の出兵要請にも数百を派兵することだった。だが常陸太守という身分に反比例して数が少ないことから,戦果を期待されず隊の後尾に配置
されてしまった。戦後このことから,積極的に味方もせずさしたる功無し,と判定される。もっとも,家康としては,この義宣の中立決断について腹を立てると
いうよりは,主替えが当然の戦国にあるのにもかかわらず,世渡りが不器用で頑固な男と,苦笑交じりに評している。結果,減封処分として,永年住み慣れた常
陸を追われ,秋田藩に配置換えとなった。この配置換えについても,移動に際し家臣や佐竹氏を慕う領民(商人も含む)は,幾次かに分けられて海路も使い,移
住していったとものと伝わる。
このとき,佐竹氏が美人をすべて秋田に連れて行った,というのだ。これが真実なら,秋田は気象,地理的条件だけでなく,水戸からも美人の血を受け継いだことになる。とすれば水戸は元来,美人の地だった,」ということになる。
仙台藩主・伊達政宗も美人は国を滅ぼすと追放したから,仙台に美人がいなくなったという水戸と同様な説がある。
「政宗の記録,文献を見ても美人追放というのは一切ない。根拠となるものもない。水戸,尾張は徳川御三家,仙台は大名のトップ,というのでやきもちからそう言われているのではあるまいか」。
東北でも秋田は小野小町の出ということもあり,美人の産地として有名である。秋田は江戸時代,西回り航路を利用すると京都が近かったので,文化や人間の
交流,寺社参詣も江戸より京,大阪の上方と深くかかわった。これが「江戸よりも上方に近かったから服装,言葉遣いがきめ細やという風土を育んだのだとい
う。
●日本三名園 水戸の偕楽園-
日本三名園の1つとされる水戸市の偕楽園には、13万平方メートルの敷地におよそ100種類、3000本の梅の木が植えられています。
偕楽園は去年の東日本大震災で、斜面が崩れたり、園内にある水戸藩ゆかりの別荘の土壁が崩れたりするなどの被害を受け、今月初めまで復旧工事が行われていました。 偕楽園の「梅まつり」は2月18日から3月31日まで開かれています。、
●鹿島神宮-
出典:ウィキペディア
鹿島神宮(かしまじんぐう)は、茨城県鹿嶋市にある神社。式内社(名神大社)、常陸国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 全国に約600社ある鹿島神社の総本社。神栖市の息栖神社、千葉県香取市の香取神宮とともに東国三社の一社。宮中の四方拝で遥拝される一社。鹿島神宮では年間約90回もの年中行事がある。初詣には全国から60万人以上が参拝におとずれている。
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茨城県の特産品 |
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amazon-茨城県グルメ |
地域区分
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出典:茨城県ホームページ
茨城県の地形は,北部山間地帯を除き,北関東平野の平地にある。県は以下の5つの地域に区分される。
県北地域:人口64万1285人(1万4017人減)―日立都市圏
県央地域:人口47万4794人(223人増)―水戸都市圏
県南地域:99万9204人(2万1968人増)―つくば都市圏
県西地域:57万4372人(1万4771人減)―筑西都市圏
鹿行地域:人口27万9210人(295人増)―鹿嶋都市圏
⇒茨城県の人口
地域特性
日本一の関東平野を全国2位の大河・利根川が潤す。気候は温暖で,豪雪・水不足とは縁遠い。農業産出額は,北海道,千葉,鹿児島に次ぐ4位。工業面では,素材型・加工組立型から,筑波研究学園都市に代表される研究開発機能まで,全国有数の工業集積が立地している。工業出荷額は12兆6676億円(2008年12月工業統計)で,1997年のピーク時を超えて過去最高を記録している。地域別では,県南地域(取手・土浦ほか)が3兆2039億円で県全体の25,3%と最も多く,次いで鹿行(神栖市・鹿嶋市),県北(日立市・ひたちなか)と続く。市町村別では,神栖市が16,7%で最も多く,次いで日立市,ひたちなか市の順になっている。
●県都 水戸市
水戸市は,首都東京から約 100 キロメートルの距離にあり,関東平野の北東端に位置する茨城県の県庁所在市である。明治 22 年4月1日,横浜市など
30 市とともに全国で初めて市制を施行し,水戸市が誕生した。
本市の人口は,平成 29 年 10 月1日現在で270,775 人で,人口規模が県内第1位であり,県全体(2,896,675 人)の約 9.3
パーセントを占める。 近年の人口はおおむね横ばいであり,昭和 50 年から昭和 55 年までの5年間の人口増加率は 8.9 パーセントであったが,平成
22 年から平成 27 年までの5年間の人口増加率は0.8 パーセントである。
また,年齢別人口の推移では,昭和 60 年から平成 27 年までの 30 年間で,年少人口が 17,426 人,構成比が 22.8 パーセントから13.2
パーセントへと大幅に減少した。反面,高齢者人口は 46,265 人,構成比が 8.7 パーセントから 25.1 パーセントへと増加し続けており,少子・高齢化が進行している。
◆県庁所在地のある市で最も栄えていない駅ベスト4
山形駅前,前橋駅前,山口駅前,水戸駅前は,「県庁所在地のある市で最も栄えていない駅ベスト4」とも揶揄される位,商店街(商業集積)が寂れている。
●茨城県の大学 |
・筑波大学: (つくば市) |
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茨城県の「魅力度」,46位に浮上
民間コンサルタント会社「ブランド総合研究所」(東京都)が実施の,47都道府県と全国1000市区町村を対象にした「地域ブランド調査2012」で,3年連続47位だった茨城県の「魅力度」が,46位に浮上した。 市区町村別の魅力度では,県内最高は128位のつくば市。県庁所在地の水戸市246位,つくばみらい市297位と続いた。
この調査は,「認知度」「観光意欲度」「まちのイメージ」など72項目について,全国の3万375人から回答を得た。
魅力度は総合順位で,都道府県別ランキングを始めた09年から茨城県は,ワースト1位であった。今年は昨年44位の群馬が最下位に陥落した結果,福島,栃木,佐賀に次ぐ46位となった。1位は4年連続で北海道だった。
ブランド総合研究所は,北関東の3県(群馬県,茨城県,栃木県)はいずれも順位が低いが,これは首都圏という大市場から近いために,地域のイメージ作りなどの必要性が弱かったからではないか。ただ,北関東3県の産品購入意欲度などは決して低いわけではなく,これらの魅力を県の魅力として定着させていくことが重要であろう,と,問題提起している。
出典:出典:地域ブランド調査2012 都道府県ランキング
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