ライバル分析1 熊本県

   LAST UPDATE : Tuesday, March 10, 2009

 九州のほぼ中央に位置する熊本県は,古くから九州の行政,文化,交通,経済の拠点として発展してきました。地の利の良さとともに,肥後54万石の歴史と伝統がいたるところに息づいている。
 熊本県は,阿蘇・天草の2大観光地を有し,変化に富む自然美あふれるロケーション,相良氏700年の歴史を今に伝える人吉・球磨地方,そして,石橋が点在する緑川流域,不知火海の穏やかな海岸美が楽しめる芦北地方と,見どころは豊富ある。

 農林水産業もさかんである。熊本市を母都市とし近隣の1市12町2村にまたがる「新火の国計画ーザ・プロメテウス・プラン」と名づけられた熊本テクノポリス構想に呼応して,近年,IC産業などの先端技術産業の進出もあり,日本のシリコンバレーとも呼ばれる。


 温暖な気候,豊かな水,広大な丘陵をもつ熊本には,約2万8千年前から人々が 住んでいた。旧石器・縄文時代の遺跡は,県下各地で発見されている。弥生時代には,いち早く稲作が始まり,大陸に近いことから青銅器や鉄器も見られます。玉名郡天水町では日本最古の鉄斧が出土しており,弥生文化が栄えたことが知られている。
 律令時代になると,豊かな熊本県は九州で唯一の「大国」となり,鞠智城(菊池市,山鹿市)が造られた。また,8世紀編纂の「万葉集」にも熊本の風土が歌われている。

 平安時代に入ると,肥後国には14の郡とその下には99の郷ができた。荘園全盛期には,阿蘇荘や鹿子木荘,山鹿荘など約10の大荘園ができ,この中から武士団が台頭した。武士が活躍した鎌倉時代には,武士たちが地頭や守護に任命され,阿蘇氏や菊池氏,小代氏が各地で勢力をふるった。南北朝時代には,菊池氏の勢力が強まり,阿蘇,名和,相良の諸氏がこれに続いた。だが,,室町末期,菊池氏の勢力は衰えると,豊後の大友氏,肥前の龍造寺氏,薩摩の島津氏が侵攻し,肥後国は戦国三大名の争奪の地となった。その後,島津氏の勢力下におかれ,豊臣秀吉の九州平定まで続いた。

 天正15(1587)年,九州を平定した秀吉は,佐々成政を肥後の国主に任じたが,国衆一揆により佐々は失脚。その後,加藤清正が県北を,小西行長が県南を,相良氏が球磨を支配した。熊本城を築造した加藤清正は慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで滅んだ小西氏のあとを受けて肥後を統一。領内では土木・治水工事を手掛けるなど多くの業績を残した。

 寛永9(1632)年,加藤氏の後を受けて肥後に入国した細川氏は明治維新まで肥後54万石を治め,茶道の肥後古流,能の喜多流と金春流,門外不出の肥後六花,相撲の吉田司家,肥後象嵌などの文化育成に力を注いだ。3代細川忠利の招きで熊本にきた剣豪宮本武蔵は,晩年を熊本で過ごし,「五輪書」を著している。
 天草は長崎に近く,小西氏がキリシタン大名であったことから,キリスト教が広く浸透し,コレジオ(天草学林)が建てられたり,ラテン語や天文学などキリシタン文化が栄えた。

 明治2(1869)年,版籍奉還。同4(1871)年の廃藩置県により熊本藩は熊本県に, 人吉藩は人吉県に,天草は一時,長崎県に編入され,同9(1876)年に現在の熊本県ができあがった。明治10(1877)年に西南戦争が起こり,熊本がその主戦場となった。水前寺公園の近くに移築されている熊本洋学校教師館は,西南戦争時に佐野常民が博愛社創立の許可を受けたところで,日本赤十字発祥の地とされている。明治20(1887)年には第五高等中学校が設けられ,夏目漱石,小泉八雲らが教鞭を取り,多くの人材が巣立っている。
                      出典:熊本の歴史と文化(熊本県HP)



熊本市−政令指定都市を目指す

熊本市は,明治22年に市制を施行,当時人口42,725人,市域面5.55km2であったが,大正期と昭和期に飽託郡の町村との合併を繰り返し発展してきた。平成3年2月には飽託郡4町と合併し,」現在,人口670,1900人(平成18年9月1日現在推計人口),市域面積267.22km2(平成18年4月1日現在)の中核市となった。


  熊本市は,政令指定都市(政令市)は現在の地方自治制度の中では最も充実した基礎自治体であるとして,政令市移行を目指している。
 政令指定都市指定の要件としては,
・人口50万人,運用は100万人程度。
・行財政能力が備わっている こと。
・政治,経済,文化等での既存政令市と比較し遜色ないこと。
 などで, 審査指標は人口,個人消費,都市計画,産業,福祉,医療,教育等と多岐に及ぶ。



  出典:鹿児島市HP http://www.city.kumamoto.kumamoto.jp/n038_seirei/seirei/7.html

都市圏人口
 熊本都市圏の人口は,2000(平成12年)10月1日現在787,960人(国勢調査)で熊本県総人口の42.4%を占めており,人口増加率は,2.3%である。
 また,昭和30年国勢調査以降,5年毎に熊本市は4万人前後で増加していたが,平成7年から平成12年までは,約1万8千人の増加と,伸びは鈍化している。

 近代文学のふるさと熊本。当地では,多くの文化人や文学者が生まれ,この地を訪れて,数々の名作を世に出した。文学のステージになった熊本。夏目漱石は,熊本を「森の都」と呼んだ。九州の中央lこ位置する肥沃な熊本平野は,交通の結節点にもあたり昔から経済的・政治的また軍事面での要衝であった。古くは「熊本」を「隈本」と書いていた。県のまとめた「市町村合併推進構想」によると,熊本都市圏を「九州の拠点」とするためには熊本市の政令市移行が必要として,周辺の富合,嘉島,甲佐の各町や西原村との合併の検討を提言している。


 松本城,姫路城とならぶ,日本三名城の一つに数えられる熊本城。加藤清正が7年の歳月をかけて1607年に築いた豪壮堅固な城である。曲線を描く石垣“武者返し”をはじめ,慶長期に建てられた宇土櫓(重要文化財)など多くの文化財が残されており,歌会や能が催されていた数寄屋丸二階御広間も再建され。
 また,熊本城の鬼門にあたり平常開けられることがなかった不開門(あかずのもん・重要文化財)も,現在開放されている。その熊本城跡の中で威光を放っているのが天守閣。西南戦争の際に焼失したものを1960(昭和35)年に再建し,加藤清正,細川家,西南戦争などの関連資料を多数,展示している。



 熊本と福岡の関係は微妙である。行政面ではつい最近まで,熊本が九州全体の中心だったからだ。これには歴史的な経緯がある。明治に入り西南戦争が起こったとき,西郷隆盛率いる反乱軍の中心となった鹿児島を抑え込むために,政府機関を熊本に集中して置いた。以来そうした体制がずっと続いてきた。
 だが,ここ二十年ほどの間に,熊本にあった中央官庁の出先機関が,福岡に移っている。現在,福岡には九州経済産業局(経済産業省),九州地方整備局(国土交通省),九州運輸局(同),人事院九州事務局などがある。

熊本空港(阿蘇くまもと空港)

 1960年に熊本市街の健軍町で開港,1971年に拡張やジェット化のため阿蘇のふもとの現在地へ移転。1971年 熊本市の東約20km,標高193mにある,益城町,大津町,菊陽町にまたがる高遊原台地に開設時2500mの滑走路で建設された。隣接して陸上自衛隊高遊原駐屯地(航空隊,飛行隊)がある。

 1980年に滑走路を3000メートルに改良,霧が出るため就航率が低かったが,1995年に国内で初めて成田と釧路と同時に霧の中でも着陸可能なカテゴリー3a(CAT-Va)の計器着陸装置(ILS)を導入し,欠航が減少。現在は九州内で福岡と鹿児島に次ぐ利用者数を得ている。

◆人口

 熊本県の年齢3区分別人口構成比の推移をみると,15歳未満の年少人口は,昭和35年頃まで30%台で推移してきましたが,昭和40年頃から30%を割り,その後も出生率の低下により構成比は年々低下を続け,平成14年には15.0%となっている。。
 15歳以上65歳未満の生産年齢人口の割合は,戦後上昇を続け昭和50年代には約66%を占めるまでになった。2002(平成14)年には62.66%となり,減少傾向に入った。
 65歳以上の老齢人口の割合は,1960(昭和35)年ころまで6%台で推移していましたが,その後急激に上昇を続け,1995(平成7)年に18.33%となり,年少人口の17.3%を上回った。2002(平成14)年には22.4%を占めるなど,高齢化が急速に進んでいる。

◆財政

 90年代,国は日米構造協議を受けて策定された「公共投資本計画」(当初430兆円・改訂後630兆円)やバブル経済崩壊後の「経済対策」で,地方に公共事業を消化させてきた。その促進策として採られたのが,起債充当率(事業に公債収入を充てることができる割合)や起債対象事業の拡大,交付税措置(地方債元利償還の一部を後の交付税で手当すること)であった。
 熊本県もこうした国の政策のもとで,93年度以降毎年3000億円を上回る公共投資を行い,その経費を賄うために1500億円規模の公債発行を続けてきた。その結果として多額の公債累積(2000年度末1兆1544億円)残り,その元利償還が財政に重くのし掛かっている。
 熊本県が作成した「中期財政見通し」では,2003年から6年にかけて毎年350億円を超える財源不足が生じると見込まれてる。しかし,本県の場合,標準財政規模(約4200億円)の5%,およそ210億円程度の実質赤字(公債を発行してもなお生ずる財政赤字)が出ると財政再建団体に転落する。この中期見通しは1.75%という願望に近い「名目経済成長率」を前提している。実態は,2001年度の政府経済見通しでも0.9%のマイナス成長であり,税収は「見通し」より大幅に減ることは避けられない。

地域格差

 熊本県の1人当たり県民所得の対全国格差指数(全国の1人当たり県民所得を100とした熊本県の格差指数)の推移を観察すると,50年代後半になると,神武 岩戸景気の好況が続き,熊本県の格差指数は60年には62.9まで低下し格差を拡大した。こ
 75〜99年における格差指数の推移は,この25年間の開差は77ポイントで格差の変動幅は比較的小さい。
80年代半ばから90年代初めにかけてのバブル期に,熊本県の対全国格差は拡大していったが,バブル崩壊後,対全国格差は縮小する傾向をみせ,94年以降,82前後と安定的に推移していた。
 01年には83.6まで縮まったが,02年2月から景気は回復局面に入ったことから,格差指数もこれをふたたび拡大の兆しがみられる。

商業

熊本市は,すでに大型店の出店戦争のまっただ中にある。100万人以上の商圏を抱える中心商店街の「上通(かみとおり)」と「下通(しもとおり)」。そこから車で約15分という県道沿いに,「イオンモール」が店舗面積約7万平方メートルという九州最大の大型ショッピングセンター(SC)を進出させるのに続き,その近く県農業試験場跡地にも大型SCの進出話が持ち上がった。危機感を強めた中心商店街では,進出反対署名23万人分を集め,県や市の議会に請願,昨年12月議会で採択される事態に発展した。

 熊本県内の大型SCは,主なものだけでも9店舗。すでにSCに中心商店街の店舗が「吸収」される現象さえ出ている。

 


熊本県 関連HP リンク集






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